NHKラジオ?まいにちスペイン語「すばらしきラテンアメリカ ?Américas fantásticas!」7月号が開講!!
「すばらしきラテンアメリカ ?Américas fantásticas!」
本学外国語学部イベロアメリカ言語学科スペイン語専攻の柳沼孝一郎名誉教授とシルビア?ゴンサレス教授が担当するNHKラジオ?まいにちスペイン語(応用編)「すばらしきラテンアメリカ ?Américas fantásticas!」が再放送されます。
歴史?文化?社会?人々の暮らし、その多様性が織りなす魅力あふれるラテンアメリカの国々を旅しながらスペイン語を学ぶ講座です。
歴史?文化?社会?人々の暮らし、その多様性が織りなす魅力あふれるラテンアメリカの国々を旅しながらスペイン語を学ぶ講座です。
■7月号から、コロンビア、ベネズエラ、エクアドルの南アメリカ編です。
●第25課「コロンビアの首都ボゴタにて」:
着陸を知らせる機内アナウンスが流れると同時に窓外には山並みが迫ってきます。南アメリカ大陸の太平洋岸を8,000Kmにわたって連なるアンデス山脈 (cordillera de los Andes) です。いよいよ南米の旅の始まりです。コーヒー、バナナ、エメラルドなどで日本にもなじみの深いコロンビアは、1492年に新大陸到達の偉業を成し遂げたコロンブスのイタリア名 Colomboに、「土地、国」を意味する接尾辞 –ia がついてColombiaとなったものです。やがて眼下には緑なすボゴタ高原 (Sabana de Bogotá) に広がる大都会が見えてきます。標高約2,600m、人口約600万人を擁する首都ボゴタです。山間盆地に位置するだけに、ケーブルカーで登りつめたモンセラーテの丘 (cerro de Monserrate) から一望するボゴタはまさに絶景です。中心街にある黄金博物館 (Museo del Oro) も見逃せません。ボゴタは、コロンブスが到達する前の「先コロンブス時代」に高度文化を築いたチブチャ chibcha族の都だったところですが、館内には、その名のとおり、エル?ドラド (El Dorado:黄金郷) 伝説を生んだといわれる黄金で作られた筏「バルサ?ムイスカ balsa muisca」が展示されているからです。1538年にスペイン人のゴンサロ?ヒメネス?デ?ケサダ (Gonzalo Jiménez de Quesada) によって建設されたボゴタは、カテドラルやラ?カンデラリア (La Candelaria) 教会など植民地時代の面影を今に残す実に美しい都市です。
●第26課「カリブ海沿岸の旅」:
ボゴタの郷土料理アヒアコ?サンタフェレーニヨ(ajiaco santafere?o:ジャガイモ、トウモロコシ、アボカド (aguacate) などで作る煮込み料理)に舌つづみを打ちながらカリブの旅に想いを馳せます。やがて、カリブ海沿岸の港湾都市バランキージャ (Barranquilla) へ向かう飛行機の眼下には、蛇行しながらカリブ海に注ぐ大河マグダレナ川 (río de Magdalena) が見えてきます。独立戦争を戦い抜いたあと、夢を打ち砕かれ、追われるようにしてマグダレナ川を彷徨い、失意のうちに病没した英雄ボリバルを描いたガルシア=マルケス (Gabriel García Márquez) の『迷宮の将軍』(El general en su laberinto、木村榮一訳)の舞台となった川でもあります。河口に位置し、スペイン植民地時代に新大陸貿易の拠点として栄え、奴隷制プランテーションの導入と同時に膨大数のアフリカ人が送り込まれ、独立後は「コロンビアの金門」と称されて、ドイツ人、ユダヤ人、レバノン人やアラブ人そしてインド人などの新移住者が渡り、さまざまな民族と文化が交錯する、今では大工業都市に変貌をとげたバランキージャの街を巡ります。カリブの海風が肌をなで、椰子とセイバの樹が風にそよぐ。アコーデオンと太鼓の陽気で軽快なリズム音楽バジェナタ (vallenata) のカリブ的な響きを堪能しながら、ガルシア=マルケスが新聞記者時代を過ごした日々を想います。マルケスも活動し、多くの文人を排出した文学同人会「バランキージャ?グループ (Grupo de Barranquilla)」で知られた文化都市でもあります(ガルシア=マルケス(鼓直?柳沼孝一郎訳)『ジャーナリズム作品集』を参照)。バランキージャからほど近い、カルタヘナ (Cartagena) もスペイン植民地時代に新大陸貿易で活況を呈した歴史的な港町です。海賊から港と町を守るために建設され、ユネスコ世界遺産にも登録されているサン?フェリペ要塞 (Castillo San Felipe de Barajas) は見る者を圧倒します。
●第27課「ガルシア=マルケスの故郷にて」:
バランキージャを後にしたバスはカリブ海に沿ってひた走ります。はるか彼方に連なる万年雪を頂いたサンタ?マルタ山脈を眺めながら、バナナ園が綿々とつづく街道を折れ、しばらく行くと小さな町にたどり着きます。ガボ (Gabo) またはガビート (Gabito) の愛称で親しまれるガルシア=マルケスの故郷、アラカタカ (Aracataca) です。彼の言葉を借りれば、そこは「大部分が、アメリカの会社であるユナイテッド?フルーツ社によって建設された」町です。1910年頃に米企業が進出すると、鉄道が敷かれ、町はバナナ景気に沸きました。しかしやがて町は消えました。あの『百年の孤独』(Cien a?os de soledad、鼓直訳)の舞台となった「マコンド」のように、蜃気楼のようにです。マコンドとはアフリカの言語でバナナの種類の名前ですが、そういえば、ガビートが幼児教育と初等教育を受けた、現在では「マコンド」という名の幼稚園もあります。やがて、「ガブリエル?ガルシア=マルケス記念館」が見えてきます。ガビートはこの家で祖父母と一緒に暮らしていましたが、祖父母から文学的な面で多大な影響を受けました。髪は茶色で、色白で、いつもきちんと髪をとかし、半ズボンをはいてこざっぱりしていて、人形のようだったと館長が語ってくれたのが印象的です。「現実的なものと幻想的なものを結びあわせて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像の世界を創造した」ことが理由で1982年にノーベル文学賞を受賞したマルケスが、「今日まで、編み目を一つ一つ拾いながら、そんな生活だった...」と、記者時代から親交のあった、バランキージャ在住の女流詩人メイラ?デル?マール (Meira del Mar) に漏らした言葉が反芻されます。旅の終わりにアラカタカの駅に立ちます。灼熱の午後、線路沿いの埃だらけの道を緑色のバナナの房を積んだ牛車がゆっくりと進んでいくのでした。
●第28課「ベネズエラの首都カラカスにて」:
世界一の石油埋蔵量を誇るベネズエラ(正式名はベネズエラ?ボリバル共和国 República Bolivariana de Venezuela)の名は、マラカイボ湖畔の町がイタリアのベネチアに似ていることからスペイン人が Veneciaに縮小辞をつけてVenezzuelaつまりVenezuela(小ベネチア)と名づけたことに由来します。首都カラカス (Caracas) は植民地時代の雰囲気が残る美しい街です。南アメリカ独立の英雄にして、マルケスの『迷宮の将軍』の主人公シモン?ボリバルの生誕地としても知られています。スペインのバスク出身のボリバル一族は広大な土地やアシエンダ(hacienda農園)を所有し、銀山や銅山、砂糖プランテーションそしてカカオ?プランテーションなども保有する、イスパノアメリカ(スペイン領アメリカ)のクリオーリョ(criollo:特にアメリカ大陸生まれのスペイン人)社会では名家でした。南アメリカきっての由緒ある、裕福な一族の四人息子の末っ子として、シモン少年はこの屋敷で産声を上げ、わずか9歳で実母のドニャ?マリア?コンセプシオンが逝去する1792年まで暮らしました。邸宅は「シモン?ボリバル生誕記念館」として一般に公開されていますが、展示物の一つ一つに、屋敷のパティオ(patio中庭)から、そこかしこからシモン少年の屈託のない笑い声が聞こえてきそうです。
●第29課「アンデスの文化都市メリダにて」:
ベネズエラの西部、アンデス山脈の山間に位置するメリダ (Mérida) は風光明媚な都市です。世界で最も高い場所にあるロープウェイからの眺望は圧巻です。アンデスの町らしく、ネバダ山脈の峰々を表すと伝説が伝えるモニュメント「五羽の白い鷲 (Las cinco águilas blancas)」は市の象徴です。メリダはまた、カラカスのベネズエラ中央大学と並んで名門のロス?アンデス大学(Universidad de Los Andes, ULA)を擁する学園都市です。この文化都市からこれまで多くの文学者、芸術家そして知識人が生まれました。中でも、代表作『ラテンアメリカ文化史-二つの世界の融合 (De la conquista a la independencia)』でも知られるメリダ出身のマリアノ?ピコン=サラス (Mariano Picón Salas) は、ラテンアメリカの歴史、文化、文学に関する多くの著作を残した、ベネズエラのみならずラテンアメリカを代表する知識人の一人です。
●第30課「世界遺産の街キトにて」:
スペイン語の「赤道 ecuador」に由来するエクアドル Ecuadorは文字通り赤道直下の国です。首都キト(Quito) の郊外、サン?アントニオには「赤道記念碑 La Mitad del Mundo」が建っています。標高4,839mのピチンチャ (Pichincha) 山麓の東側に延びるキトは、緑の多い、美しい街です。その昔、独自の文化を築いたキトゥ (quitu) 族が栄えた都です。15世紀にインカ皇帝ワイナ?カパック (el inca Huayna Cápac) に征服され、のちに皇帝アタワルパ (Atahualpa) のインカ帝国に併合され、以後、クスコ (Cuzco)と並んでインカ帝国第二の都として栄えた街でもあります。その後、スペイン人の征服者ピサロ (Francisco Pizarro) のペルー征服を機に、1533年にベナルカサル (Benalcázar) に征服され、翌年サン?フランシスコ?デ?キト (San Francisco de Quito) の名で再建されました。ユネスコの世界遺産に登録されているキト旧市街 (Quito colonial) には、先住民のカスピカラ (Caspicara) やパンピーラ (Pampite)、そしてゴリバル (Javier de Goribar) やサマニエゴ (Manuel Samaniego) など数々の彫刻家や画家を世に送った「キト美術学校 Escuela Quite?a」出身者による宗教芸術作品が数多く残っています。1809年8月10日の独立宣言を記念する塔が建っている「独立広場 Plaza de la Independencia」からほど近い、1536年に建設された南米最古のサン?フランシスコ教会 (Iglesia de San Francisco) のファサードは、スペイン王フェリペ2世が建立したエスコリアル宮殿と同じ様式のものです。その近くにあるサント?ドミンゴ教会 (Iglesia de Santo Domingo) の修道院内部の「ロザリオの聖母礼拝堂」を飾る聖母像はスペイン王カルロス5世から直々に贈られたものです。やがて暮れなずむころ、標高3,000mのエル?パネシージョ (El Panecillo) の眼下には街の灯がまばたきはじめます。
●第31課「グアヤキルそぞろ歩き」:
コーヒー豆やカカオ豆と並んでバナナでもなじみの深いエクアドルですが、グアヤキル (Guayaquil) は太平洋に面した最も重要な貿易港です。スペインからの独立後のあり方をめぐって、シモン?ボリバルとホセ?デ?サン?マルティン (José de San Martín) の歴史的会談が行われた町でもあり、細菌学者の野口英世が黄熱病 (fiebre amarilla) の調査研究で滞在したところでも知られています。海岸通りを意味する「マレコン (Malecón)」の一角、とあるシーフードレストランでセビチェ(ceviche:生の魚介にレモンの搾り汁や香辛料であえた料理)を堪能しながら、1,120 kmはるか太平洋上に浮かぶ、ダーウィンの進化論 (darwinismo) でも有名なガラパゴス諸島(Galápagos のgalápagoは「大型の海亀」、正式名はコロン諸島 Archipiélago de Colón)の旅を想うのも至福の一時です。
●第32課「トピック 「解放者」シモン?ボリバル」:
イスパノアメリカでも屈指の名家の末息子として生まれたシモンは幼くして両親を亡くし、叔父にひきとられ、そこでイポリタ (Hipólita) という守役の黒人女性に献身的に育てられました。「私の母イポリタに望むものをすべて差し上げるように。彼女は私にとって二親以上なのだから」とシモンが今際のきわに言い残したほどでした。貴公子といわれるまでに成長したシモンは活発な若者で、乗馬はとくに上手で、『ドン?キホーテ』を愛読し、家庭教師シモン?ロドリゲスのもとで、ヨーロッパの啓蒙思想家の著作に接し、影響を受けながら成長したのでした。そして16歳のときにマドリードに留学、そこで貴族トーロ家の令嬢マリア?テレサと結婚、1802年に最愛の妻を伴ってカラカスに帰国、ところが黄熱病がもとで妻はあえなく他界、シモンはのちに「もし妻に先立たれなかったら、ボリバル将軍にも、「解放者」にもなっていなかったであろう」と述懐していますが、孤独と絶望のなかで再びヨーロッパに渡りました。そしてそこで、スペイン領アメリカから帰国したばかりのドイツの自然学者フンボルト (Alexander von Humboldt)に遭遇し、スペイン植民地の独立の機が熟していることを聞かされ、大いに啓発されたボリバルはスペイン領アメリカの独立解放のためにすべてを捧げることを誓い、カラカスに戻ったのでした。トピックではシモン?ボリバルの波乱万丈の生涯をたどります。
着陸を知らせる機内アナウンスが流れると同時に窓外には山並みが迫ってきます。南アメリカ大陸の太平洋岸を8,000Kmにわたって連なるアンデス山脈 (cordillera de los Andes) です。いよいよ南米の旅の始まりです。コーヒー、バナナ、エメラルドなどで日本にもなじみの深いコロンビアは、1492年に新大陸到達の偉業を成し遂げたコロンブスのイタリア名 Colomboに、「土地、国」を意味する接尾辞 –ia がついてColombiaとなったものです。やがて眼下には緑なすボゴタ高原 (Sabana de Bogotá) に広がる大都会が見えてきます。標高約2,600m、人口約600万人を擁する首都ボゴタです。山間盆地に位置するだけに、ケーブルカーで登りつめたモンセラーテの丘 (cerro de Monserrate) から一望するボゴタはまさに絶景です。中心街にある黄金博物館 (Museo del Oro) も見逃せません。ボゴタは、コロンブスが到達する前の「先コロンブス時代」に高度文化を築いたチブチャ chibcha族の都だったところですが、館内には、その名のとおり、エル?ドラド (El Dorado:黄金郷) 伝説を生んだといわれる黄金で作られた筏「バルサ?ムイスカ balsa muisca」が展示されているからです。1538年にスペイン人のゴンサロ?ヒメネス?デ?ケサダ (Gonzalo Jiménez de Quesada) によって建設されたボゴタは、カテドラルやラ?カンデラリア (La Candelaria) 教会など植民地時代の面影を今に残す実に美しい都市です。
●第26課「カリブ海沿岸の旅」:
ボゴタの郷土料理アヒアコ?サンタフェレーニヨ(ajiaco santafere?o:ジャガイモ、トウモロコシ、アボカド (aguacate) などで作る煮込み料理)に舌つづみを打ちながらカリブの旅に想いを馳せます。やがて、カリブ海沿岸の港湾都市バランキージャ (Barranquilla) へ向かう飛行機の眼下には、蛇行しながらカリブ海に注ぐ大河マグダレナ川 (río de Magdalena) が見えてきます。独立戦争を戦い抜いたあと、夢を打ち砕かれ、追われるようにしてマグダレナ川を彷徨い、失意のうちに病没した英雄ボリバルを描いたガルシア=マルケス (Gabriel García Márquez) の『迷宮の将軍』(El general en su laberinto、木村榮一訳)の舞台となった川でもあります。河口に位置し、スペイン植民地時代に新大陸貿易の拠点として栄え、奴隷制プランテーションの導入と同時に膨大数のアフリカ人が送り込まれ、独立後は「コロンビアの金門」と称されて、ドイツ人、ユダヤ人、レバノン人やアラブ人そしてインド人などの新移住者が渡り、さまざまな民族と文化が交錯する、今では大工業都市に変貌をとげたバランキージャの街を巡ります。カリブの海風が肌をなで、椰子とセイバの樹が風にそよぐ。アコーデオンと太鼓の陽気で軽快なリズム音楽バジェナタ (vallenata) のカリブ的な響きを堪能しながら、ガルシア=マルケスが新聞記者時代を過ごした日々を想います。マルケスも活動し、多くの文人を排出した文学同人会「バランキージャ?グループ (Grupo de Barranquilla)」で知られた文化都市でもあります(ガルシア=マルケス(鼓直?柳沼孝一郎訳)『ジャーナリズム作品集』を参照)。バランキージャからほど近い、カルタヘナ (Cartagena) もスペイン植民地時代に新大陸貿易で活況を呈した歴史的な港町です。海賊から港と町を守るために建設され、ユネスコ世界遺産にも登録されているサン?フェリペ要塞 (Castillo San Felipe de Barajas) は見る者を圧倒します。
●第27課「ガルシア=マルケスの故郷にて」:
バランキージャを後にしたバスはカリブ海に沿ってひた走ります。はるか彼方に連なる万年雪を頂いたサンタ?マルタ山脈を眺めながら、バナナ園が綿々とつづく街道を折れ、しばらく行くと小さな町にたどり着きます。ガボ (Gabo) またはガビート (Gabito) の愛称で親しまれるガルシア=マルケスの故郷、アラカタカ (Aracataca) です。彼の言葉を借りれば、そこは「大部分が、アメリカの会社であるユナイテッド?フルーツ社によって建設された」町です。1910年頃に米企業が進出すると、鉄道が敷かれ、町はバナナ景気に沸きました。しかしやがて町は消えました。あの『百年の孤独』(Cien a?os de soledad、鼓直訳)の舞台となった「マコンド」のように、蜃気楼のようにです。マコンドとはアフリカの言語でバナナの種類の名前ですが、そういえば、ガビートが幼児教育と初等教育を受けた、現在では「マコンド」という名の幼稚園もあります。やがて、「ガブリエル?ガルシア=マルケス記念館」が見えてきます。ガビートはこの家で祖父母と一緒に暮らしていましたが、祖父母から文学的な面で多大な影響を受けました。髪は茶色で、色白で、いつもきちんと髪をとかし、半ズボンをはいてこざっぱりしていて、人形のようだったと館長が語ってくれたのが印象的です。「現実的なものと幻想的なものを結びあわせて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像の世界を創造した」ことが理由で1982年にノーベル文学賞を受賞したマルケスが、「今日まで、編み目を一つ一つ拾いながら、そんな生活だった...」と、記者時代から親交のあった、バランキージャ在住の女流詩人メイラ?デル?マール (Meira del Mar) に漏らした言葉が反芻されます。旅の終わりにアラカタカの駅に立ちます。灼熱の午後、線路沿いの埃だらけの道を緑色のバナナの房を積んだ牛車がゆっくりと進んでいくのでした。
●第28課「ベネズエラの首都カラカスにて」:
世界一の石油埋蔵量を誇るベネズエラ(正式名はベネズエラ?ボリバル共和国 República Bolivariana de Venezuela)の名は、マラカイボ湖畔の町がイタリアのベネチアに似ていることからスペイン人が Veneciaに縮小辞をつけてVenezzuelaつまりVenezuela(小ベネチア)と名づけたことに由来します。首都カラカス (Caracas) は植民地時代の雰囲気が残る美しい街です。南アメリカ独立の英雄にして、マルケスの『迷宮の将軍』の主人公シモン?ボリバルの生誕地としても知られています。スペインのバスク出身のボリバル一族は広大な土地やアシエンダ(hacienda農園)を所有し、銀山や銅山、砂糖プランテーションそしてカカオ?プランテーションなども保有する、イスパノアメリカ(スペイン領アメリカ)のクリオーリョ(criollo:特にアメリカ大陸生まれのスペイン人)社会では名家でした。南アメリカきっての由緒ある、裕福な一族の四人息子の末っ子として、シモン少年はこの屋敷で産声を上げ、わずか9歳で実母のドニャ?マリア?コンセプシオンが逝去する1792年まで暮らしました。邸宅は「シモン?ボリバル生誕記念館」として一般に公開されていますが、展示物の一つ一つに、屋敷のパティオ(patio中庭)から、そこかしこからシモン少年の屈託のない笑い声が聞こえてきそうです。
●第29課「アンデスの文化都市メリダにて」:
ベネズエラの西部、アンデス山脈の山間に位置するメリダ (Mérida) は風光明媚な都市です。世界で最も高い場所にあるロープウェイからの眺望は圧巻です。アンデスの町らしく、ネバダ山脈の峰々を表すと伝説が伝えるモニュメント「五羽の白い鷲 (Las cinco águilas blancas)」は市の象徴です。メリダはまた、カラカスのベネズエラ中央大学と並んで名門のロス?アンデス大学(Universidad de Los Andes, ULA)を擁する学園都市です。この文化都市からこれまで多くの文学者、芸術家そして知識人が生まれました。中でも、代表作『ラテンアメリカ文化史-二つの世界の融合 (De la conquista a la independencia)』でも知られるメリダ出身のマリアノ?ピコン=サラス (Mariano Picón Salas) は、ラテンアメリカの歴史、文化、文学に関する多くの著作を残した、ベネズエラのみならずラテンアメリカを代表する知識人の一人です。
●第30課「世界遺産の街キトにて」:
スペイン語の「赤道 ecuador」に由来するエクアドル Ecuadorは文字通り赤道直下の国です。首都キト(Quito) の郊外、サン?アントニオには「赤道記念碑 La Mitad del Mundo」が建っています。標高4,839mのピチンチャ (Pichincha) 山麓の東側に延びるキトは、緑の多い、美しい街です。その昔、独自の文化を築いたキトゥ (quitu) 族が栄えた都です。15世紀にインカ皇帝ワイナ?カパック (el inca Huayna Cápac) に征服され、のちに皇帝アタワルパ (Atahualpa) のインカ帝国に併合され、以後、クスコ (Cuzco)と並んでインカ帝国第二の都として栄えた街でもあります。その後、スペイン人の征服者ピサロ (Francisco Pizarro) のペルー征服を機に、1533年にベナルカサル (Benalcázar) に征服され、翌年サン?フランシスコ?デ?キト (San Francisco de Quito) の名で再建されました。ユネスコの世界遺産に登録されているキト旧市街 (Quito colonial) には、先住民のカスピカラ (Caspicara) やパンピーラ (Pampite)、そしてゴリバル (Javier de Goribar) やサマニエゴ (Manuel Samaniego) など数々の彫刻家や画家を世に送った「キト美術学校 Escuela Quite?a」出身者による宗教芸術作品が数多く残っています。1809年8月10日の独立宣言を記念する塔が建っている「独立広場 Plaza de la Independencia」からほど近い、1536年に建設された南米最古のサン?フランシスコ教会 (Iglesia de San Francisco) のファサードは、スペイン王フェリペ2世が建立したエスコリアル宮殿と同じ様式のものです。その近くにあるサント?ドミンゴ教会 (Iglesia de Santo Domingo) の修道院内部の「ロザリオの聖母礼拝堂」を飾る聖母像はスペイン王カルロス5世から直々に贈られたものです。やがて暮れなずむころ、標高3,000mのエル?パネシージョ (El Panecillo) の眼下には街の灯がまばたきはじめます。
●第31課「グアヤキルそぞろ歩き」:
コーヒー豆やカカオ豆と並んでバナナでもなじみの深いエクアドルですが、グアヤキル (Guayaquil) は太平洋に面した最も重要な貿易港です。スペインからの独立後のあり方をめぐって、シモン?ボリバルとホセ?デ?サン?マルティン (José de San Martín) の歴史的会談が行われた町でもあり、細菌学者の野口英世が黄熱病 (fiebre amarilla) の調査研究で滞在したところでも知られています。海岸通りを意味する「マレコン (Malecón)」の一角、とあるシーフードレストランでセビチェ(ceviche:生の魚介にレモンの搾り汁や香辛料であえた料理)を堪能しながら、1,120 kmはるか太平洋上に浮かぶ、ダーウィンの進化論 (darwinismo) でも有名なガラパゴス諸島(Galápagos のgalápagoは「大型の海亀」、正式名はコロン諸島 Archipiélago de Colón)の旅を想うのも至福の一時です。
●第32課「トピック 「解放者」シモン?ボリバル」:
イスパノアメリカでも屈指の名家の末息子として生まれたシモンは幼くして両親を亡くし、叔父にひきとられ、そこでイポリタ (Hipólita) という守役の黒人女性に献身的に育てられました。「私の母イポリタに望むものをすべて差し上げるように。彼女は私にとって二親以上なのだから」とシモンが今際のきわに言い残したほどでした。貴公子といわれるまでに成長したシモンは活発な若者で、乗馬はとくに上手で、『ドン?キホーテ』を愛読し、家庭教師シモン?ロドリゲスのもとで、ヨーロッパの啓蒙思想家の著作に接し、影響を受けながら成長したのでした。そして16歳のときにマドリードに留学、そこで貴族トーロ家の令嬢マリア?テレサと結婚、1802年に最愛の妻を伴ってカラカスに帰国、ところが黄熱病がもとで妻はあえなく他界、シモンはのちに「もし妻に先立たれなかったら、ボリバル将軍にも、「解放者」にもなっていなかったであろう」と述懐していますが、孤独と絶望のなかで再びヨーロッパに渡りました。そしてそこで、スペイン領アメリカから帰国したばかりのドイツの自然学者フンボルト (Alexander von Humboldt)に遭遇し、スペイン植民地の独立の機が熟していることを聞かされ、大いに啓発されたボリバルはスペイン領アメリカの独立解放のためにすべてを捧げることを誓い、カラカスに戻ったのでした。トピックではシモン?ボリバルの波乱万丈の生涯をたどります。
A la carta “Américas fantásticas”
■1808年のナポレオンのイベリア半島侵略を機にスペイン領アメリカでは独立の気運が生まれました。ヨーロッパから帰国したシモンは兄のフアンらと「秘密結社」を結成し独立運動に着手、そうしたとき、1810年4月19日にカラカスのクリオーリョの一派がクーデターを起こし、臨時政府 (junta central) を樹立しました。シモン?ボリバルは政府の命を受けて、カラカス出身のアンドレス?ベジョ(Andrés Bello : 南アメリカ知識層の父といわれ、チリ?サンティアゴ大学を創設し学長を歴任、著書『カスティーリャ語文法』でも知られる)とともに、ベネズエラの独立運動の理解を求めるべく外交使節としてイギリスに赴きました。こうして1811年7月4日に独立を宣言、「第一次ベネズエラ共和国」が誕生しました。ところが未曾有の大地震がカラカスを襲い、独立軍も壊滅的な打撃を受け共和国はあえなく崩壊、「大自然まで逆らうというのか!ならば自然とも徹底的に闘って、我々に服従させるまでだ!」とまで叫んだのでした。ボリバルは第一次共和国崩壊の原因を分析し、「苦しみに苛まれ、虐げられし人々を護り、万人が平等に真の自由に浴せるように!」と訴え軍事行動を展開し、1813年8月6日にカラカスに凱旋入城、第二次ベネズエラ共和国が再建され、「解放者 El Libertadorエル?リベルタドール」の称号が授与されました。ところが王党派との戦いで敗れ、またしても共和国は崩壊、経済援助を求めてイギリス領ジャマイカに渡り、黒人共和国ハイチのペティオン大統領から支援の約束をとりつけ、1816年6月に「奴隷解放」を宣言したのち、翌17年4月に第三次共和国を樹立させました。そして1819年2月15日にアンゴストゥーラ会議を招集し国家の基本制度について演説、「奴隷解放」が採択されました。こうして同年12月17日、ベネズエラとクンディナマルカ(コロンビア)そしてキト(エクアドル)の三行政州を併合し単一の国家とする「グラン?コロンビア共和国 (República de la Gran Colombia)」が樹立され、ボリバルが初代大統領に選出されました。ボリバルの怒涛の日々を想いつつ、ボリバルが身を寄せたサン?ペドロ?アレハンドリーノ (San Pedro Alejandrino) 農場内を巡ります。農場の一室で、1830年12月17日、午後1時、死期が迫り来るなかで、結核に蝕まれた痩身を湿ったベッドに横たえたボリバルはわずかばかりの友人に、「いったいどうすればこの迷宮から抜け出せるんだ!」(前述『迷宮の将軍』)と溜息まじりに吐いたのでした。
■サムディオ (Alvaro Cepeda Zamudio) やフエンマヨール (José Felix Fuenmayor) そして文芸評論家のフエンマヨール (Alfonso Fuenmayor) など多くの文人を輩出したバランキージャはまた、「ビオレンシア (La Violencia)」と呼ばれた暴力の時代に勃発した「ボゴタ暴動 (Bogotazo)」で大学を追われたガルシア=マルケスがバランキージャ?グループのメンバーとして活動し、新聞「エル?エラルド (El Heraldo)」の記者として過ごした町でもあります。人間の営為が錯綜する港町、けばけばしい灯がやりきれない暑さに揺らぎ、怪しげな雰囲気が漂う、何が起こっても不思議ではない文字通りの「犯罪通り (Calle Crimen)」、その一角にあった新聞社の編集室で深夜、22歳の若きガルシア=マルケスは、“Septimus”というペンネームでコラム蘭 “La Jirafa” の原稿を、そして「落葉 (Hojarasca)」を書いていたのです。
■やがてバランキージャの港には大型豪華客船が繋がれ、「文明と進歩の大量の荷」が運び込まれ、そして「進歩に不可欠の健全な移住者の波がそこから内陸部へと押し寄せた」のでした(ガルシア=マルケス(桑名一博訳『私の人生と創造の核』を参照)。また、「コロンビアのカリブ海岸は、ブラジルと共に、いちばんアフリカの影響が感じられるラテンアメリカの地方」だと言っています。さらに、「われわれがアフリカ人でもあったことを発見した...われわれが混血であったことを。われわれの文化が混血であり、持ち寄られたさまざまな富で豊かになった」とも、アフリカの黒人奴隷の想像力が土着民のそれと、その後のガリシア人の信仰と混ざり合ったのだ)とも記しています。まさに民族が交錯する、融合文化の世界なのです。
■サムディオ (Alvaro Cepeda Zamudio) やフエンマヨール (José Felix Fuenmayor) そして文芸評論家のフエンマヨール (Alfonso Fuenmayor) など多くの文人を輩出したバランキージャはまた、「ビオレンシア (La Violencia)」と呼ばれた暴力の時代に勃発した「ボゴタ暴動 (Bogotazo)」で大学を追われたガルシア=マルケスがバランキージャ?グループのメンバーとして活動し、新聞「エル?エラルド (El Heraldo)」の記者として過ごした町でもあります。人間の営為が錯綜する港町、けばけばしい灯がやりきれない暑さに揺らぎ、怪しげな雰囲気が漂う、何が起こっても不思議ではない文字通りの「犯罪通り (Calle Crimen)」、その一角にあった新聞社の編集室で深夜、22歳の若きガルシア=マルケスは、“Septimus”というペンネームでコラム蘭 “La Jirafa” の原稿を、そして「落葉 (Hojarasca)」を書いていたのです。
■やがてバランキージャの港には大型豪華客船が繋がれ、「文明と進歩の大量の荷」が運び込まれ、そして「進歩に不可欠の健全な移住者の波がそこから内陸部へと押し寄せた」のでした(ガルシア=マルケス(桑名一博訳『私の人生と創造の核』を参照)。また、「コロンビアのカリブ海岸は、ブラジルと共に、いちばんアフリカの影響が感じられるラテンアメリカの地方」だと言っています。さらに、「われわれがアフリカ人でもあったことを発見した...われわれが混血であったことを。われわれの文化が混血であり、持ち寄られたさまざまな富で豊かになった」とも、アフリカの黒人奴隷の想像力が土着民のそれと、その後のガリシア人の信仰と混ざり合ったのだ)とも記しています。まさに民族が交錯する、融合文化の世界なのです。
機関誌 PRESENTE y PASADO(ロス?アンデス大学)
■本学と学術協定を締結するロス?アンデス大学(第29課を参照)から機関誌 “PRESENTE y PASADO”(現在と過去)が刊行されました。今回の第50号は、ラテンアメリカを代表するヒューマニストの一人であるマリアノ?ピコン=サラス (1901-1965) の生誕120周年を記念した特集号です。本学でも教鞭をとられたグレゴリー?サンブラノ先生(ロス?アンデス大学文学部教授を歴任、現在東京大学)を編集長として、世界各国から研究者が参加して編纂されましたが、本学のシルビア?ゴンサレス先生と柳沼の対談記事 “Mariano Picón Salas en Japón: La fusión de otros dos mundos”(日本におけるマリアノ?ピコン=サラス:二つの世界の融合)も掲載されています。
●毎月末に講座の内容をご案内します。
●放送は木曜日と金曜日、7:15~7:30(再放送は同日?午後2:45~3:00、翌週?午前11:45~0:00)同日です。
●インターネットで番組が聴けます。NHKラジオ「らじる★らじる」です。
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マグダレナ川(バランキージャ)
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バランキージャの市街
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バランキージャ?グループの面々
(中央、口ひげのマルケスを囲んで)
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カルタヘナ市街
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カルタヘナ旧市街
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サン?フェリペ要塞
(カルタヘナ)
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ガルシア=マルケスのメッセージ
(アラカタカ)
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アラカタカの街中
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幼稚園マコンド
(アラカタカ)
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ガルシア=マルケス生誕記念館
(アラカタカ)
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アラカタカ駅
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ボリバル生誕記念館
(カラカス)
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シモン?ボリバル像
(カラカス)
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アンデス山間の町メリダ
(ベネズエラ)
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五羽の白い鷲
(メリダ)
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ロス?アンデス大学キャンパス
(メリダ)
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ロス?アンデス大学校舎
(メリダ)
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サン?ペドロ?アレハンドリーノ農園
(サンタ?マルタ、コロンビア)
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