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ジャーナリストへの道⑩ー韓国特派員はこうして始まった

2025/01/16

文 黒田 勝弘 (アジア言語学科韓国語専攻客員教授?産経新聞ソウル駐在客員論説委員)

筆者の顔写真

前号で紹介したように、日本のメディアでは海外に派遣される記者のことを「特派員」といってきた。そこでクイズになるが、歴史的に日本人の海外特派員第1号はいつ、どこの国に派遣された誰か?
答えは「韓国に派遣された半井桃水」である。時代は今から140年以上前の明治14年(1881年)。メディアは「大阪朝日新聞」で、派遣先は正確には韓国南部の釜山だった。詳しい経緯は省くが、当時、新興紙だった「大阪朝日」は読者拡大策の一つとして海外ニュースに目をつけた。そして最も近い外国である韓国に記者を派遣したのだが、その記者として文学青年で後に作家になる半井桃水(なからい?とうすい)を選んだ。
文学史的にいえば、彼は後に樋口一葉の恋人だったことで知られる。樋口一葉は最近まで5000円札紙幣の肖像画になっており、日本の近代女流文学者の草分けである。半井桃水が選ばれたのは、長崎県の対馬出身で、江戸時代末期に韓国?釜山にあった対馬藩の出先機関(倭館)に、父とともに滞在したことがあったからだ。そのため韓国語もできた。彼は文学青年らしく、釜山に派遣されるとニュースのほか、韓国の古典文学でラブストーリーの『春香伝』も翻訳し、それを「大阪朝日」に連載しているんですね。

ところで当時、半井桃水の派遣先が首都のソウル(漢城)ではなく釜山だったのはなぜか?彼にとって釜山は対馬藩の縁もあり勝手知ったところだったが、記者としては物足りなかったはずだ。首都でなかった理由は、李朝末期の韓国政府が日本人の首都滞在を許さなかったからだ。鎖国が続いた韓国も5年前の江華島条約で対日開国に踏み切ってはいたが、日本に対しては警戒心が強かったのだ。
当時、「大阪朝日」はつぶれかかっていたのを貿易商の村山龍平が入手してから売れるようになったのだが、韓国特派員派遣は彼のたっての考えからだった。商売人だった彼は、これから韓国(朝鮮半島)は日本にとっていい商売になると見通していたのだ。この予測がぴったりだったことは、その後の歴史が物語っている。
たとえば日本のジャーナリズムを考えても、その後、日清戦争(明治27-8年、1894-5年)では日本から大量の従軍記者が韓国に派遣されている。その数、66社129人という記録が残っているほどだ。日清戦争は実質的には韓国が舞台だったからだが、後の日露戦争(1904-5年)もそうで、日本のメディアはこうした戦争をきっかけに本格的な海外報道に乗り出したといっていい。

これは欧米のメディアも同じで、メディアは戦争報道によって大もうけし大きくなったんですね。逆にいえば戦争は人びとにとっていかに興味深く、大きな関心の対象であるかということだが、このことは周知のように今も変わらない。したがって記者というのは、戦争や事故、事件など人の不幸でメシを食っている“イヤな職業”ということになりますね(苦笑)。
韓国に戻れば、明治の半井桃水から始まった日本の韓国特派員は、現在では16社約30人がソウルと釜山に駐在している。釜山には九州?福岡が本社の「西日本新聞」が唯一、記者を派遣しているが、ほとんどはソウルである。そして近年、女性記者が増え現在7人になっている。ちなみに日本メディアの女性ソウル特派員第1号は、筆者が支局長をしていた2000年代初めの産経新聞だった。
それまでソウル特派員は「戦争」や「政争」をはじめ厳しく困難でどこか「危ないポスト」というイメージだったのが、今や様変わりですね。こうした変化は韓国自体が先進国化した結果でもあり、それにともなって韓国への関心も多様化したということだろう。韓国を目指す女性記者は今後もっと増えるに違いない。
ここでもう一つのクイズになるが、韓国での日本人特派員第1号は明治時代の半井桃水として、では最も韓国滞在が長かった日本人特派員は誰か?
いささか気恥しいけれど、答えは「筆者」である。今年で通算40年以上になるが、これは外国人記者全体としても最長である。韓国でこんなに長く滞在した外国人記者は他にはいない。実感としては「気が付くといつの間にかそうなっていた」という感じだが。「だからどうなんだ?」といわれればそれまでだが、その長居の理由は後で触れるように、一言でいえば「それほど韓国が面白かったから」ですね。
振り返ってみると、記者としてこんなに長く韓国に滞在できた背景には1988年10月のソウル?オリンピックが関係していたように思う。筆者はこの年、それまで勤めていた共同通信を辞め、産経新聞に移ったのだが、それを決断したのがオリンピック閉幕直後だった。当時はメディア界で同業他社に移るというのは珍しかった。
決断の理由はひとえに「もっと現場(韓国)で仕事をしたい」ということだった。
メディアの日韓関係は、1988年までは両国間の記者協定で双方15人以内の派遣という制限があった。その制限がソウル五輪後には撤廃され自由に派遣できることになっていた。したがって今後は各社とも特派員を複数派遣する方向だった。筆者は1984年で共同通信ソウル支局長(常駐特派員)は終わっていたので、上司に「もう一度ソウル派遣の可能性は無いのか?」聞いたところ「もう現場は無い」だった。
47歳の時である。この歳で現場はおしまいとは。これでは人生、面白くない。ちょうどそのころ韓国専門記者を求めていた産経新聞から「ソウルで仕事をさせるから来ないか?」という話があり、とびついたのだ。
スカウトされたわけだが、その際、「移るにあたって条件があればいってほしい」というので「ソウル駐在の任期を期限無しにしてほしい」といったところ「いいですよ」となった。海外特派員としては異例で破格のことだった。こうして1989年1月あらためて産経新聞ソウル支局長として韓国に赴いた。それ以来、今も韓国で記者生活を続けている。つまり1988年末に産経新聞に移ったことで筆者は希望通りの“韓国長居”ができたということですね。
その結果、今や「長居の秘訣は?」とか「どうしてそんなに長く?」とよく質問される。答えは決まっている。「韓国が面白いから」であり「飽きないから」「ネタが尽きないから」である。
この面白さの背景は、一言でいえば日本との関係にあって、地理的近さや文化的、歴史的な縁の深さである。それがゆえに交流や緊張、対立がひんぱんで、お互い長い間、影響を与え合ってきた。「異」ではあるけれど同時にどこか「同」もあって、この「異同感」によってお互いすこぶる「気になる相手」なのだ。日本にとってこんな外国は韓国しかない。

これまで筆者はこの興味深い相手について、さまざまな表現を使って理解しようとしてきた。「異同感」もそうだが、たとえば初期の著書では「韓国人はアジアのイタリア人である」(1986年刊『韓国人の発想』)と書いたり、あるいは「最も反日で最も親日」とか「昼は反日、夜は親日」というのもある。「韓国はスルメである」「かめばかむほど味が出る」が、深い縁のゆえに日本人は引き込まれやすく、はまりやすい。そこで「韓国はブラックホールだ」とも書いた。ということは、面白いけれどもどこか危ない(?)対象でもある、ということだ。これは国にとっても個人にとってそういえるのでは?
お互い「同」には安心し「異」には緊張するが、「異」があってこそ外国暮らしである。これは韓国に限ったことではないが、やはり「異」を楽しむことが外国での長居の秘訣ということになるだろうか。
直近の出来事でこんなことがあった。年末のことだ。韓国でも年末には忘年会をよくやる。これは日本によってもたらされた日本文化で、「過ぎた年は忘れて新年は新しい気持ちで」という風習というか季節感は本来、韓国人にはない。したがって韓国人にとって本来の正月である旧暦1月1日(ソル)の前に忘年会などやらない。そこで以前は日本語そのままに「マンニョンフェ(忘年会)」といったのが、近年は「ソンニョンフェ(送年会)」と言い換えられている。

その「送年会」の季節になり、日本人の友人と季節の「ブリ刺し」を食おうと街の魚屋に入った。小さな店で、しばし「ブリ刺し」を楽しんでいると、向かいのテーブルから40歳前後とおぼしき男性客が「クロダ記者ではありませんか?」といってやってきた。「そうだけど、どこかで会ったっけ?」と首を傾げていると、彼はこういうのだった。
実は「クロダ記者が1980年代に韓国で出版した『韓国人あなたは何者か』という本を父が持っていて、自分も若いころそれを読んで実に面白く記憶に残っていた、たまたま今日、店で見かけたのであいさつしたくなった」というのだ。これには驚き、感激した。この本は1983―4年に韓国で10万部も売れてベストセラーになったのだが、それが40年後によみがえったのだ。これは実にうれしかったですね。
こんなことがあるので、なかなか韓国を離れられないのかもしれない。この連載コラムは今回で終わりだが、筆者にとって最大の外国である韓国暮らしの面白さについては、また機会をあらためて紹介したい。感謝(カ?サ)ハミダ!
(完)