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2024/11/25
文 黒田 勝弘 (アジア言語学科韓国語専攻客員教授?産経新聞ソウル駐在客員論説委員)
筆者の顔写真
日本のメディアでは海外に派遣される記者のことを「特派員」といってきた。外国に出かけることが珍しかった昔は、海外で外国を取材する記者は「特別に派遣される社員」ということで特別扱いだった。海外での仕事が一般化し、人びとの海外体験が普通になっている現在、そんな言葉がジャーナリズムに今なお残っているのは不思議だが、これはいわば「業界の隠語」みたいなものですね。
このシリーズの第1回目で紹介したように、筆者は韓国語学留学(1978-79年)にもかかわらず危うく(?)イスラエル特派員に任命されかかった。社会部記者時代に日本人過激派による「テルアビブ空港襲撃事件」を現地取材した経験があったからだが、実は韓国留学から戻った後、筆者は外信部に移っており、早くソウル特派員になれないものか心待ちにしていた。そこでずうずうしくも(?)イスラエル行きは断り、ソウル行きのチャンスをうかがっていたところ、1979年10月26日に韓国で朴正煕大統領暗殺事件という大事件が発生し、ソウル特派員としての出番が一気に早まったのだ。
まず韓国では亡くなった朴大統領の国葬が行われ(11月3日)、葬儀に参列する日本政府の弔問特使となった岸信介?元首相の同行記者として同じ飛行機でソウルに飛んだ。機中で岸特使から「1961年、彼に最初に会った時“日本の幕末?維新の吉田松陰、高杉晋作の気持ちで国作りをしている”といってたなあ」という思い出話を聞いたことが今も記憶に残っている。
この時、岸特使一行は日帰りで日本に戻ったのだが、筆者は韓国側に頼み込んでそのまま居残った。大統領暗殺事件という非常事態で戒厳令が発布され、外国人記者の入国は禁止されていたにもかかわらず滞在延長に成功したのだ。そのまま翌年1月まで滞在して遭遇したのが、後の全斗煥政権スタートにつながる軍部による「12?12事件」だった。朴大統領亡き後の軍内部の新旧勢力争いで、双方、深夜に部隊を動員し一触即発の事態となった。これは結局、全斗煥将軍ら新軍部が勝利し実権を握る。最近、日本でも公開された韓国映画『ソウルの春』はこの事件をドラマ化したものだが、ただ、あれはあくまで映画として面白く脚色されたもので、全斗煥将軍が極悪非道の悪玉に描かれているのには苦笑しましたね。
この韓国現代史の大事件となった「10?26」から「12?12」の際の“ソウル臨時特派員”を経た後、韓国はさらに政治的激動を迎える。18年間も続いた朴政権が終わった後、韓国政治を誰が担うのかをめぐって翌1980年は“デモの春”となり、政治混乱が深まった。その頂点が5月の光州事件ですね。
全斗煥将軍ら新軍部主導で金大中氏をはじめ野党政治家が逮捕されたため、金大中氏の政治的地盤である光州市でこれに反発する市民ぐるみの大規模な抗議デモが発生。鎮圧に軍隊(戒厳軍)が出動したことから市民との間で流血の衝突へと拡大、死者約200人という惨事となってしまった。光州事件の余波は日本のメディアのソウル支局に及び、当時、筆者が在籍していた共同通信をはじめ多くの日本メディアのソウル支局が「報道に問題があった」として閉鎖を命じられ、特派員は追放された。
その後、各社ともソウル支局をいかに復活させるかが大きな課題となり、そこで東京にいた筆者にまた出番が回ってきた。当時、筆者に対し上司は「キミはわが社最初のソウル留学帰りで親韓的と思われているだろうから、韓国側とうまく接触してソウル支局再開に努力してほしい」というのだ。
途中の裏話は省略するが、結果的には5月から4カ月後の9月になって韓国政府から筆者に対し入国ビザが出た。支局再開ではないが、特派員としての取材は認めるという。韓国内でとりあえず野党勢力が抑え込まれ、政治的混乱が収拾され、8月末に全斗煥大統領が誕生したことを受けての緩和措置だった。この時は一か月限定の取材ビザの延長を繰り返し、ホテル暮らしを続けながら翌1981年4月にソウル支局再開にこぎつけた。
こんなこともあって筆者のソウル特派員生活は当然、独り暮らしでスタートした。その後、韓国でアパートといってるマンションへの入居もできたが独り暮らしは続いた。別の言葉でいえば「単身赴任」である。韓国の政治的激動にかこつけ家族同伴の機会を逸したというわけだが、実はこの「単身赴任」は今も続いている。筆者のソウル暮らしは40年になるが、この間ずっと独り暮らしなのだ。となると政治的激動はもう理由になりませんよね。
余談めいていえば、長年の「ソウル単身赴任」の言い訳は別にあった。結果論でもあるが、筆者としてはせっかくの韓国現地体験なので24時間まるごと韓国と付き合いたかったからだ。とくに韓国語の習得のためにはそれが必要と思った。家族同伴の場合は当然、日常生活では家族に配慮しなければならない。家族に時間を取られることになる。これが惜しくて単身赴任を続けることになったのだ。家族には限りなく申し訳なかったが、筆者のわがままのためにがまんしてもらった。
韓国での記者生活のスタートとなった1980年代の前半は全斗煥政権時代だった。すでに紹介したようにこの政権は、朴大統領暗殺事件の後、軍部主導で政治的混乱を力で抑えて誕生した政権だったため、国民の支持を得るために苦心した。そこで「新時代」を看板に前の朴政権とは異なる政策を進めた。前の朴政権は北朝鮮に勝つために経済建設に全力を挙げ、国民にはぜいたく禁止、勤倹節約でガマンを求めた。お陰で高度経済成長を実現し経済では北朝鮮を追い越したが、国民にはその恩恵はまだ十分にいきわたっていなかった。
というわけで新政権は「新時代」のスローガンの下、人びとの生活を明るくしようとした。戒厳令はもちろん解除されたが、それよりも1960年代から続いていた夜間外出禁止令を廃止した。これは実に画期的なことだったですね。
この禁止令は北朝鮮の軍事的脅威に備える目的で、午前零時から午前4時まで一切の外出や活動を禁止したものだった。通称「トングム(通禁=通行禁止)といわれ、人びとの生活を厳しく規制していた。筆者は留学時代からこれを経験しているが、人びとは夜遅くなると帰宅を急がなければならなかった。夜のタクシーはいつも争奪戦だった。飲み屋では落ち着いて酒も飲めない。「パリパリ(早く早く)」といわれる韓国人の性急なライフスタイルは、これによって形成されたといわれたくらいだった。
新政権のスタートで国民は一日24時間まるまる使ええるようになり、本来の夜を取り戻した。また韓国の夜はそれまで電力節約でネオンサインは禁止され街灯もうす暗かったが、それも解禁され文字通り夜が明るくなった。日本統治時代の名残りだった学生、生徒たちの黒や紺の制服が廃止され、自由服装になったため、これで街がさらに明るくなった。そして人びとの生活に大きな影響を与えたのがカラーテレビ放送の開始だった。
それまでは「カラーテレビはぜいたくで、かつ仕事せずにテレビばかり見てしまうから」といって白黒時代が続いていたが、それを解禁したのだ。カラーテレビで何が変わったかというと、たとえば化粧品のテレビコマーシャルのお蔭で人びとが日常的に化粧をするようになったんですね。これでさらに人びとと街が明るくなった。それまで韓国女性の化粧は金持ち夫人か商売用など一部に限られていたのだ。
サッカーや野球、韓国相撲(シルム)など韓国のプロスポーツもすべてこの時代に始まった。野球でいえばプロ野球草創期の1980年代初め、日本からやってきた選手の活躍が印象に残る。韓国人で日本プロ野球進出第1号だった白仁天選手が帰国して韓国プロ野球を盛り上げたが、初年度に打率4割で首位打者になった彼の記録は今も破られていない。投手で日本の広島カープからはせ参じた在日韓国人の福士敬章選手(韓国名、張明夫)の年間30勝も韓国記録として残ったままだ。
スポーツといえば1986年のアジア競技大会、88年のソウル五輪で韓国は国際的に注目される国になったし、韓国映画が国際映画祭で初めて受賞(ベニス映画祭主演女優賞のカン?スヨン)したのも80年代である。文学作品で初めての100万部突破となった小説『人間市場』もこの時代だ。そして大衆歌謡で大ヒットした『アパート』は1982年だが、韓国でアパートと呼ばれるマンションが住居として広がり定着したのはこの時代である。「アパート」は韓国人のライフスタイルを大きく変え、入居したい住宅のシンボルとして今でも国を挙げて話題になり続けていますよね。そういえば海外旅行が自由になったのも80年代である。
この時代について韓国では、全斗煥政権誕生の政治的理由から公式的には今なお否定的評価がもっぱらだが、人びとの暮らしという下から目線でいえば実に明るくいい時代だった。今や先進国となった韓国の歩みはこの時代にスタートしたといってもいい。筆者は日ごろ政治過剰の韓国人の歴史観には不満なので、あえて「明るかった80年代」を紹介したしだいです。
筆者は1988年10月のソウル五輪が終わった後、共同通信を辞めて産経新聞に移った。当時、日本では記者が別のメディアに移るのはきわめて珍しかった。なぜ移ったのか。ひとえに「韓国現地で記者を続けたいから」だった。その経緯は次回に紹介する。