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「ジャーナリストへの道⑦ ーなぜ韓国に入れ込んだか」

2024/08/30

文 黒田 勝弘 (アジア言語学科韓国語専攻客員教授?産経新聞ソウル駐在客員論説委員)

筆者の顔写真

新聞記者の世界には何でもやる”遊軍“というポストがあると先に紹介した。この”遊軍“の面白いところは記者の独自の発想でいわゆる”企画モノ“もやることだ。あるテーマを設定し、時間をかけて取材し、それを連載記事にするのだ。筆者は遊軍記者をやっていた1977年、かねての構想からある企画取材に取り組んだ。その企画は「アジア住み込み取材シリーズ」と銘打ったもので、アジア各国の普通の人びとの家庭に1か月間、住み込んで、その体験をレポートしようというものだった。

 

普通、記者の取材というと、記者があちこち動き回って色んな人に会いその声を聞くというスタイルで、とくに海外取材はそうだ。しかしそれでは現地の人びとの本当の様子はよく分からない。暮らしに根差した本当の日常を知るためには短期移動型ではダメだ、一定期間、現地の人と暮らしを共にする定点観測型の取材が必要と思ったのだ。

 

そこでなぜ「アジア」かというと、当時、筆者は共同通信社社会部にいたのだが、アジア近隣の国々をもっと身近に感じ理解するため、生きている人びとの様子を伝えようと思ったのだ。欧米をはじめ遠い国々や、政治経済外交などは外信部にまかせ、社会部記者的に人や暮らしの観点から迫ろうとしたのだ。

 

この発想は好評で、すぐやろうとなって具体的な国々を選ぶことになったのだが、実はこの企画には筆者の陰謀(?)があった。言い出しっぺの筆者には、自らが何とか韓国で長期住み込み取材をしたいという強い希望があって、その狙いから思いついたのだ。自分一人で韓国取材するというのでは上司はウンといわない。そこで舞台を「アジア」に広げ、何人かの記者が海外取材体験するという仕組みにしてOKさせたのだ。

つまりこの企画は筆者が韓国取材をするために構想したもので、企画書では「第1回韓国編、担当黒田」とした。そして、そのほかはとりあえず台湾や東南アジアからインド?ネパールまで入れて5か国ほどを挙げておいた。韓国編の後は随時ということで、筆者は1977年6-7月、韓国に出かけたのだが、実をいえばこの企画は韓国編だけで後は続かなかった。やりたいという記者がいなかったためだ。筆者にとってそれはどうでもよかった。筆者の陰謀(?)は成功し、まんまと韓国行きに成功したのだから。

 

この時期、なぜ韓国にこだわったかというと、当時、日本では韓国に対するイメージが大変悪化していた。1973年8月、東京で起きた韓国情報機関による金大中氏拉致事件の後、「韓国はひどいことをする国だ」となって、マスコミには韓国非難の報道があふれていた。

 

後に大統領になる金大中氏は当時、韓国の有力な野党政治家で、海外で反政府活動をしようとしていた。それを止めさせようとした韓国の情報機関が彼を密かに拉致し、無理やり韓国に連れ戻したのだ。政治的重大事件で、日本をはじめ国際的に大問題になった。その結果、韓国に対しては、野党いじめなど自由や人権がないがしろにされた「暗くみじめな抑圧社会」というイメージが広がっていた。事件が政治的なものだったため、韓国はもっぱら政治的かつ否定的イメージで伝えられた。

 

これに対し筆者は不満だった。歴史的、文化的に縁の深い隣国なのに「これではイメージがあまりにも貧弱ではないか」と。そう思った背景には、筆者が初めて韓国を訪れた1971年夏の旅行体験があった。

夏休みに記者仲間の友人と2人で1週間、韓国の各地を旅したのだが、その時の印象が強く残っていたのだ。それは人びとの風景で、当時は物質的にはまだ豊かではなかったけれど、一言でいえば「みんな明るく、活発で、がんばっている」という印象だった。政治的な暗いイメージとは別に、現地で接した普通の人びとやその暮らしは結構、元気にあふれていた。その結果、隣国を政治的現象だけで暗くイメージするのはおかしい、この際、人びとや暮らしを含めてもっと多様、多角的に隣国の姿を伝えるべきだ、と思ったのだ。そこから出てきたのが「韓国?住み込み取材」だった。

 

“住み込み”は南部の韓国第2の都市?釜山だった。首都ソウルはそれなりに知られていたので地方都市を選んだ。ある人の紹介で釜山港税関の下級契約職だった同年輩(当時、35歳)の男性の家庭に1か月間、家族と一緒に寝泊まりさせてもらった。朝夕の食卓も一緒だからいわば“居候(いそうろう)”である。食卓を共にすることは暮らし体験には欠かせない。言葉はどうしたのか?これは後で触れる。

 

子供は小2と幼稚園の男の子ふたりだったが、小2の子の運動会をのぞいた時の風景は今も忘れられない。綱引き、玉入れ、2人3脚…など日本文化そのものだったが、子どもたちの応援歌が日本のテレビアニメ「キャンディキャンディ」だったのには驚いた。パパは日曜登山の市民グループに入っていたのでよく同行した。山での昼飯時、バケツでマッコリの回し飲みには驚いたが、この集まりのおかげ色んな人と知り会った。ガールフレンドができて当時のOLたちの日常に触れることもできた。

この時の「韓国住み込み取材」は帰国後、「素顔の韓国」というタイトルで10回の連載記事となり、日本各地の新聞に掲載され好評だった。隣国の多様な面を紹介できたということではそれなりの満足感はあったけれど、念願の韓国長期取材がかなった後、新たな課題を抱えることになった。「言葉」の問題である。

 

1か月間の住み込みで、韓国語による意思疎通の足りなさを痛感したのだ。簡単な単語をつなげる程度の韓国語の知識と経験はあったが、本格的な会話による意思疎通には歯がゆい思いをした。それに釜山で経験した韓国人、韓国社会の興味深さ、とくにガールフレンドがもたらしてくれた韓国女性への新鮮な驚きは、筆者の「韓国」への関心をさらに刺激した。その驚きとは「感情に忠実」あるいは「オープンマインド」ということだが、ここでは深入りしない。

 

ということがあって、今度は「韓国人、韓国社会をもっと知るためにはもっと韓国語を知らなければならない」となったのだ。そのためには、何としても韓国へ語学留学しなければならない。どうすればいいか?ある案が頭に浮かんだ。これも自らの希望を実現させるための“陰謀”のようなものだったが、これまたうまくいって、筆者は翌1978年3月、韓国語学留学に旅立つ。その経緯は次回に続く。