■深田祐介の『炎熱商人』
日本企業はODA等を活用して南洋へ再進出しましたが、中でも商社の活躍は際立っていました。しかし、その進出ぶりが経済侵略として批判されたりもしました。1971年に起こった住友商事マニラ支店長射殺事件は、そうした日本企業の動きが地元の人々の恨みを買った一例です。深田祐介の『炎熱商人』は、この事件をモチーフにした小説で、1982年の直木賞受賞作品です。太平洋戦争の傷跡を色濃く残すフィリピンのマニラを舞台に、国際ビジネスの最前線で活動する商社マンが直面する現実を描いています。小説は商社マンの小寺と太平洋戦争時の軍人の馬場大尉の姿を重層的に展開させながら、日本側(本社や大本営)の勝手な言い分に翻弄される現場の責任者の苦悩を巧みに抉り出しています。
憲兵隊の馬場大尉は、「徳の力をもってアジアの民族に接しなくてはならぬ」と考え、マニラ支店長の小寺は、「いまだに奪う日本人のイメージは消えていないのではないか。今こそなにかを残すべきときではないのか」と考えました。共に「相手の立場を考える態度」を大切にする現場の責任者でしたが、二人とも悲惨な死を迎えています。大本営も本社も手前勝手な自己都合の発想で現場に無理を強います。そこを何とかするのが現場だろうという考え方なのです。「糧は前線で前線の責任において調達せよ、しかし勝たねばならぬ、という発想と、資金は現地で、現地の責任において調達せよ、しかし儲けねばならぬ、という発想といったいどこが違うのか」ということです。
日本人の考え方は、戦後になっても太平洋戦争の時代に未だ留まっていると言わざるを得ない状況でした。軍事が経済に変わっただけで、根本の考え方は何も変わっていませんでした。勝利をめざす発想が利益をめざす発想に変わっただけで、「奪う日本人」のイメージは何も変わっていませんでした。小寺支店長は、石油ショックで苦しくなった本社から木材の買い付け価格をもっと叩けと命じられ、仕方なしにミンダナオ島の業者を買い叩くことになりました。それにより恨みを買い、射殺されます。高飛車な本社のやり口に抵抗できず、結果的に現地の責任者が業者の怒りを一身にかぶる結果になりました。
本社と子会社
私も海外で仕事をしていたとき、トップシェアをめざせ!とか売上を倍増せよ!といった掛け声に踊らされた感は否めません。日本人出向者は、本社と現地との板挟みになりがちです。しかし、明らかなのは、本社側の理屈で動くと現地サイドの理解を得られないということです。日本人は本社から出向しているので、本社への帰属意識がありますが、現地スタッフにはそのような意識は当然ありません。彼らは、現地法人に就職したのであって、本社に就職したのではないからです。
ドイツにいたとき、ドイツのGMから言われました。「お前らはいいよな。仮にドイツ会社が潰れても戻る先があるから。でも、俺らは失業するんだ」と。そのGMはのちに社内機関誌のインタビューで、「NEC is my life」と言い、自身の覚悟と意気込みを語りました。現地でこうした覚悟を持った現地人スタッフと一緒に仕事をするには、日本人も覚悟をもって臨む必要があります。出向者という気分は捨てた方がいいと思います。我々も同じ現地法人の社員なんだという意識です。こちらの目が本社に向いているかどうかを彼らは敏感に察知します。本社ばかり意識しているとわかると彼らは相手にしないか、胸襟を開いてくれません。
出向者は現地の立場で考え、行動することが第一義だと私は思います。その上で出向者は本社の方針を踏まえて活動する、本社は現地の状況をよく踏まえて謙虚に現地とコミュニケーションを取る。お互いがお互いの立場を尊重することが大切だろうと思います。特に本社サイドは、上目線の言動は慎むべきです。事業は現場で行われているということを真摯に受け止め、それをいかにサポートし、全体最適を図るかに注力すべきです。昔、海外企画部長がラインの地域部に「我々スタッフはラインの皆様のお蔭で成り立っています」と言っていましたが、まさにこのスタンスが大事だと思うのです。
南洋(東南アジア)との関係性
戦後の南洋には、植民地と戦争の影がつきまとい、また、日本人の絡むさまざまな社会事件が頻発しました。たとえば、フィリピンのマニラで起こった三井物産マニラ支店長誘拐事件(1986年)などです。これは、マニラ郊外のゴルフ場からの帰りに日本人の車5台が止められ、先頭車にいた若王子支店長がその場で誘拐された事件です。最終的に多額の身代金を払って若王子氏は解放されますが、このときの無理がたたったのか、帰国後一年くらいで亡くなりました。事件が公になるや、マスコミ報道は過熱し、切られた指の写真が新聞の一面に出るなど当時の日本にセンセーショナルな話題をもたらしました。(実際には嘘の写真だったことがのちに明かされます)
深田祐介の『暗闇商人』はこの事件をモデルにした小説です。北朝鮮、日本赤軍、フィリピンの新人民軍といったテロ組織が水面下で連携し、拉致、武器売買、身代金誘拐、航空機爆破といった行為の構図を描いています。深田は事実とフィクションを巧妙に織り交ぜながら書き上げていますが、若王子事件の真相が実際にそうだったのではないかと納得させられるほどのリアリティと迫力があります。暗闇の深層をまさに抉り出した作品です。ちなみに私がマニラに出向していたときの運転手は、この事件に出くわしました。5台の内最後尾の車にいたようです。銃を突き付けられ、震え上がったと言っていました。身代金を車に積んで1か月間車で寝泊まりしたとも言っていました。
こうした事件が起こるたび、日本と南洋(アジア)の国々の経済の格差のことを思いますが、戦後もアジアとの関係は依然一方通行のように感じます。そこには歴史的な経緯のみならず、欧米文化に染まった日本人の考えが悪戯している感も拭えません。日本はそろそろ「脱亜入欧」や「脱亜入米」の発想を抜け出し、日本独自の考えでフラットにアジアの国々と交わっていく時期にきているのではないでしょうか。経済的な価値尺度を離れ、もっとアジアが持っている価値を考えてみてもいいと思います。