ブロックバスター戦略と『トップガン マーヴェリック』
ところで、アメリカの映画スタジオが、ヒット作を作り出すために「ブロックバスター戦略」を採用していることはよく知られています。「ブロックバスター」(blockbuster)とは「超大作」のこと。もともと、街の一区画(ブロック)を一発で破壊する強力な爆弾を意味します。
このブロックバスター戦略を提唱しているのが、ハーバード大学経営大学院(HBS: Harvard Business School)のアニータ?エルバース(Anita Elberse)教授です。映画や音楽などのエンターテイメント業界において、ヒットが見込まれる作品に対して予算を集中的に投下し、製作とマーケティングを行い一挙にマーケットを制覇する(アメリカらしい)戦略です。
たとえば、昨年大ヒットしたトム?クルーズ主演の『トップガン マーヴェリック』(パラマウントピクチャーズ)は、ブロックバスター戦略の好例です。その戦略にしたがい、世界全体で興行収入約15億ドル(1,950億円)を稼ぎ出しました。製作費の規模も破格で1.7億ドル(221億円)が費やされています。興行収入(興収)は、製作費に対して約9倍に達したことになります。
同じように昨年、日本で大ヒットした『ONE PIECE FILM RED』の国内興収が197億円。『トップガン マーヴェリック』の予算の大きさが容易に理解できます。
低?中予算の映画『エブエブ』がなぜヒットしたのか?
このように、ハリウッドでブロックバスター戦略が隆盛しているなかで、トム?クルーズのようなカリスマ性のある俳優も出演していない低?中予算に分類される『エブエブ』(製作費32億円)が、ヒットした理由はどこにあるのでしょうか。
第1の理由は、極めて混沌としてハチャメチャな表現手法が観客に圧倒的なインパクトを与える点です。あらゆるモノを吸い込むブラックホールのような「黒いベーグル」。理解が難しいソーセージの指。いろいろなシーンに登場する「ギョロ目」(googly eyes)。任天堂のゲーム「大乱闘スマッシュブラザーズ」の効果音。
さらには、下半身に異物を入れながらのカンフーアクション。伝説的ロック歌手エルヴィス?プレスリーを想像させる衣装。SF映画の金字塔『2001年宇宙の旅』や『マトリックス』『キル?ビル』『バック?トゥ?ザ?フューチャー』『レミーのおいしいレストラン』などの名作へのオマージュ(敬意)。
そうしたすべてのショット、シーン、効果音、視覚的ギャグ。それらを通して、今や無限の選択肢が提示される世界に住んでいることで、私たち現代人が過度で複雑な精神的プレッシャーに直面している姿を描き出します。
監督チームは、そのような混沌を作り出すために、恋愛、ホラー、スリラー、SF、アクション、青春、ファミリーのあらゆる要素を、この『エブエブ』の中に放り込みました。それが、タイトルの『なんでも、どこでも、いっぺんに』につながってくるのです。
第2の理由が、無秩序で乱雑な表現手法にもかかわらず、映画の主題が、とてもシンプルで、観客の誰もが強く共感できる「家族の物語」であることです。監督チームのひとり、ダニエル?シャイナーは「多くの意味で、この映画はファミリードラマだ。そして、私たちは、世代間のギャップ、家族内のコミュニケーション?エラーやイデオロギーの違いなど、非常識で巨大で複雑すぎる大げさなメタファーを思いついた」と述べています。
ちなみに、「メタファー」とは、「隠喩」(いんゆ)のことです。比喩の表現形式のうち、「まるで~」「~のような」などの直接的な表現を使わずに、他の物事にたとえる手法です。『エブエブ』でいえば、採用された「無秩序な表現手法」が、人々が日常で抱える多くの複雑な問題と、それがもたらす頭の中の大混乱と大きな精神的プレッシャーを意味しているといえます。
『エブエブ』の熱狂的なクチコミ効果
第3が、熱狂的なクチコミ効果です。(上記で述べたような)圧倒的なインパクトを持つ突拍子もない表現手法と、「家族の物語」で構成されるハイクオリティーの映画に観客が感動し、それがソーシャルメディアを通じて熱烈なクチコミとして拡散されました。
『エブエブ』に関しては、パンデミックで主流になりつつある動画配信との同時リリースを敢えて遅らせてでも、映画館限定の公開にこだわる戦略が採用されました。映画館での限定公開は、配給チャネルを絞るため、興行収入面ではマイナスになる可能性があります。それを承知のうえで進めた公開戦略からは、「本来、映画は映画館で観て一緒に楽しむもの」いう製作サイドの矜持が伝わってきます。
その派手さ、バカバカしさ、ホラー性、多くのカンフーアクション、楽しいサウンド、多元宇宙に関わる描写。これらは、映画館で見るにはもってこいの要素です。結果として、『エブエブ』を映画館で鑑賞することで、アメリカの多くの人々は「劇場で映画を一緒に見ることの楽しさ」を思い出しました。パンデミックで忘れられていた体験型の「コト消費」への回帰といえるかもしれません。
一緒に笑い、そして泣いて、悲鳴を上げ、感動する。興奮した観客は、家族や友人に語り、ソーシャルメディアでつぶやく。そうしたクチコミ効果が、やがて大きな渦をつくり出していきました。
上記のような3つの理由に強力に後押しされながら、『エブエブ』は、さまざまな映画の賞レースでダントツの結果を残していきます。200個を超える賞を受賞し、およそ500個のノミネートを獲得しました。そして、賞レースのクライマックスで、映画界の最高峰である「2023年のオスカー」も手中に納めたのです。
この『エブエブ』のオスカー受賞の背景について、次のような、本質を見抜く解説があるので、要約しておきましょう。
『エブエブ』で話される言語の一部は、北京語と広東語です。そして、米国社会でマイノリティーであるアジア系移民家族を描いた作品です。さらに、「ブロックバスター」に見られるような多額の製作資金も投入されていません。つまり、これは、ハリウッドのこれまでの常識に反した映画です。
しかし、いまやアメリカの多くの観客は、ハリウッド映画の常識をくつがえす「新時代」の映画を見る準備ができていて、それを熱望しているのです。
さらに、俳優のミシェル?ヨーやキー?ホイ?クァンのように、生涯を賭けて働いてきたにもかかわらず、それに見合うだけの評価をこれまで得られなかった人々が、「新時代」を象徴する『エブエブ』のヒットを通して、数々の賞レースでスポットライトを浴びました。そうした姿を見て、米国の大衆は痛快な気持ちになり、勇気をもらったのです。
同時に、その光景を好意的に目撃していた人々がいました。アメリカ映画産業の保護者と推進者を自認する米国映画芸術科学アカデミーの良心的な会員たちです。『エブエブ』のオスカー受賞の背景には、「新時代」の到来を悟ったアメリカ映画人の良心が存在するのです。